人のことが心配になってしまうって…

大きな利害関係もないのに人の事が「心配」になってしまう人がいることを、以前は不思議に思っていました。とくに若い頃、ぼくは性格も素行もよろしくないことに定評がありましたし、自分でも人として偶然授かった“カワイゲ”に甘えている失礼なヤツだという自覚もあったつもりです。

 

でも、書きながら子どもの頃のことなどを思い出していたのですが、友達はもちろんのことまったく知らない他人であっても、理不尽と思える扱いを受けていたりすることには、中途半端ではありながらも、いきどおりを感じでいたように思います。

 

とはいえ、これって「心配」というよりも「怒り」ですよね!?

 

やっぱり「心配」ってちょっと違うと思っていて、例えば、先生が教え子を心配するという心境があまりよくわからなかったのですが、最近なんとなく理解できるようになってきました。会社の経営を自分なりに全力で取り組んでいた頃はもちろん部下やメンバーの心配もしましたが、それは大きな利害関係があったからだと思っていました。

 

これは、

 

年を重ねて心配性になったのか!?

 

他人のことも思いやれるような精神的な余裕があるからなのか!?

 

うんちマンになったことが関係しているのか!?

 

かどうかわかりませんが、

 

「心配」とは「心配り」ということで、自分の心を相手やまわりに配る、自然に湧き上がる利他的な思いなのだそうです。

「気づかい」や「気配り」と意味は似ているけれど、「気づかい」の場合は、自分のために人に気をつかうというやや意識的というか利己的意味合いも含んでいるようなのです。

 

ぼくは、いまでも大いに利己的な人だと自分でもときどき自覚したり意識したりしますが、それでも以前よりは「心配」や「心配り」が自然にできるようになってきたかもしれないことは、多くの人たちにくらべて、運良く、有り難くも、ぼくがとても“イイカンジ”の人たちに囲まれているからなのだろうと思います。

 

 

今日もここまで読んでくださってありがとうございました。

今日も自然に心配りができる人でありたいですね!