アート体験 レアンドロ・エルリッヒ展

昨日レアンドロ・エルリッヒ展を体験しに、森美術館に行ってまいりました。アンドロ・エルリッヒはアルゼンチンの現代アーティストで、大型の構造物や映像などで視覚的な錯覚や音の効果などを使って、ぼくたち人がいかに既成概念的にモノゴトをとらえ、現実を把握しているのかを楽しみながら気づかせてくれるアーティストだと思います。

 

美術館の入口で係の方に『そのかぶり物をとっていただけませんか?』といわれたのですが『やはり取らないといけないでしょうか?できればかぶっていたいのですが…』と申し上げると『少々お待ちください』といってインカムで状況を説明されると上司の方が来られて『他の方の迷惑にならないようであれば結構ですよ』とおっしゃってくださいました。寛大なご配慮に感謝です(^∧^)

 

わかりやすいのは、左の写真でしょう!こういうことが体験して写真に撮ることができるのです。これは他の来場者の方にお願いして撮っていただきました。他にもたくさんの作品があり、過去の作品の模型や写真などもたくさんあったのですが、よくこれだけいろんなアイデアが生みだせるなぁと、才能と努力に敬服しました。インスタ映えする写真も撮れるし、既成概念を揺さぶられる感じもするのでオススメですヽ(´ー`)ノ

 

 

さて…、自分がやっていることをアート表現として位置づけようと思っています。

 

 

まだ案ではありますが、UN+ART=UNART!?(アナート!?)。これはUNCHI+ARTという意味もあれば、UN(否定)≒アートであってアートでないという意味合いもあり、さらにUN(conscious)ART気づいていない、意識していないアートという意味合いも含んでいるつもりです。

 

Unconscious(意識していない)ということでは、UN理論と通底する教えとして、仏教における「分離の苦しみ」ということを意識していないでしょう!?という概念も含んでいるつもりです。

 

「分離の苦しみ」については、翻訳家として海外ではダライ・ラマとも並び称される高僧ティク・ナット・ハン師の著書を何冊も翻訳され、マインドフルネスの指導者でもある島田啓介さんから教えていただきました。

 

自分と自分のうんち、自分と自分のつめ、自分と自分の髪の毛、自分と自分の垢etc.

 

たった今まで自分の一部だったのに、分離したとたんに自分のものじゃないかのように汚いと感じてしまうこと。自分と自分以外の人、自分と他人も同じです。

 

これを(概念というか感覚的に)自分と合体というか一体化することで苦しみから解放される。というのことが仏教の教えにあるそうです。

 

 

分離の苦しみがないというよりも、むしろ分離しても嬉しい例としては、

 

お母さんと赤ちゃんがまさに分離の苦しみがない、むしろ嬉しい状態だと思います。

 

母親は自分の赤ちゃんはもちろんのことですが、自分の赤ちゃんのうんちでさえ汚いと思わないそうです。

 

 

それは、本能としての母性愛があるからでしょう。

 

 

ぼくたち人間も動物です。だから本能(後天的な経験・学習を経ずに、動物が先天的にもっている一定の行動様式)には逆らえないのだと思いますが、

 

本能があるが故に争いや戦争が起きたりもしているのだとしたら…、

 

元旦のブログにも書きましたが、仮にAIが自分の意識を拡張してくれたとすれば、AIに悪しき本能を制御させることにより、人間が次の高次な段階に進化することができるのかもしません。

 

 

 

今日もここまで読んでくださってどうもありがとうございました。

午後は暖かくなるそうです。

みなさんにとって今日もたくさん幸せな気づきがありますように(*゚▽゚*)

 

P.S.

昨年の新国立美術館の草間彌生展では、美術館の方からうんち帽のことはなにも指摘されず、むしろ多くの来場者の方から草間さんの作品と一緒に写真を撮ってくれと頼まれ、じっくり鑑賞できないくらいでした。この違いってなんなのでしょうかね!?( ̄0 ̄;)やっぱりアートのテイストの違いなのかもしれません(^^ゞ