昨日「幸せをつくれるのは自分しかいない」というブログを書きました。
ところが例外があると思ったのです。
それは子どもです。
「幸せをつくれるのは自分しかいない」というのは、
詳しくは、
「自分から幸せになろうとするアクションを起こさなければ幸せにはなれませんよ!」
「自分から幸せになろうと前向きなアクションを起こすことが幸せへの近道ですよ!」
ということ伝えたくて書いたのですが、
子どもは残念ながら自分からアクションを起こすだけでは幸せにはなれないと思っています!
そうです。
子どもは精神的にも経済的にも自立していない存在です。
生殺与奪の権利は保護者をはじめとした大人たちが握っています。
昨今、虐待やネグレクトなどのニュースが多く、
いたたまれない気持ちになりますが、
犯罪者となってしまった保護者たちも、
実はそうなりたくて、やりたくてしていたわけではないのだと思います。
子どもを虐待したりネグレクトしたりすることを、
心底からそうしたくてしている大人はいないのだと思います。
また、子どもも同じ子どもをいじめたりしますが、やはりこちらも本当に凄く憎らしくて大嫌いだからいじめたりしているのではないと思います。
いじめる側も、つねに自分よりも強い立場の親や教師などをはじめとした社会的なプレッシャーやストレスにさいなまれており、
自分と同じような「弱さ」や「違い」を感じる相手の中に、自分の弱さが垣間見えるからこそ苛立ち!
相手から見下される前に見下しておけば自分は強い立場に立てるという劣等的な心理が生じて、
つい相手をいじめてしまうのではないでしょうか?
社会的なプレッシャーやストレスには同調圧力も含まれているのだと思います。
いじめとは、いじめる相手よりいじめている自分が相対的にその場限りではあるけれど、優位的な立場に立ったように感じることで、自分のプレッシャーやストレスを一時的に解消する麻薬中毒のようなものなのではないでしょうか?
いじめられた方にもいじめた方にも精神的な後遺症が残ってしまうようです。
いじめた側には、虐待やDVの加害者になる後遺症!?が残る可能性があり、
いじめられた側には、ひきこもり、うつ病、自殺のリスクが高まるそうです。
いじめた側はいじめたことも忘れてなにもなかったように生活している、という話しを耳にすることがありますが、
実は「だれとく」で誰の得にもならないのです。
またいじめられていた子どもが、いったん立場が変わって自分よりも弱そうな者がいると、逆にいじめる側にまわったりすることさえあるようです。
ぼく自身、小学校低学年の時に少しだけいじめられそうになったことがありますが、
小学3年生のときの女性の先生が厳しかったけれど心根がとても優しく熱心な方だったので、
そこから自信をつけて、
正義感からいじめられていたり、いじめられそうなヤツらの居場所というかグループをつくって優越感にひたり、
当時はむしろいじめっ子達をバカにして、見下していた自分がいました!(今思えばある意味逆張りのいじめっ子的な発想だったと思います)
正義感や使命感はもろ刃の剣で、対立構造を生んで状況をより悪化させてしまうことが少なくありません。
大人になって会社の社長になり、
一時期は仕事ができない社員のことを無自覚にいじめて(パワハラ)いたこともあったと思い(これは子どもの頃の逆張りいじめっ子的発想の後遺症だったのかも)、
とても申し訳なく思い、反省しています。
誰の得にもならないことをやり続けている人間ですが、
その無限の悪循環のループから抜け出して、
悪循環のループを断ち切る気づきと勇気が、
自分を本当の幸せに導いてくれるのだと思っています。
今日もここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
近づく台風も対応準備をしつつも、受け入れる気持ちの余裕がもてるようでありたいと思います。