昨日Eテレの「100分deメディア論」を見ていたら、いわゆる「空気」を読む読まないについて議論されていた。
「空気」は明示的に語られないので、個々人が想像するしかない。
権力や権威ある人や組織に対して、生殺与奪権を握られている人達が「忖度」をしあうことによって「空気」をつくってしまうこともある。
例えば、
仕事であれば得意先の社長や担当者、自社の上司、上層部、経営陣の人達、
学校などで成績を決める権利を持っている先生と呼ばれる人達、
評価する権利をもっている人達、
決定権者や担当者の考え方や思惑を想像しあうような場面である。
誰もが賛成したくない非合理な決定を「空気」が行ってしまうこともある。
企業の不正や隠蔽なども誰もそうしたいとは思っていないはずだが、
会社や部署をとりまく
「いまはその方法しかないんだ!」
的な空気が不正や隠蔽を正当化してしまうことが多いように思う。
また「空気」はあんがい刹那でもある。
善悪でもなければ正誤でもないらしい。
「空気」は重要だが、他の「空気」がメジャーになってきたら、すぐに乗り換えてしまうのが「空気」でもある。
3.11直後、それまで恐らく「空気」がつくった安全神話によって崇め奉られていた「原発」は、
急転直下、悪の権化のように報道され、SNSでもやり玉に挙げられていた感があった。
当時「原発」のことを正当化する発言をする人は極めて少なくなっていたと思う。
ところが、いまはどうだろうか!?
3.11から8年以上も経った今現在、原発に否定的な人はかなり減っていると思う。
ぼく自身も3.11直後は、なんでぼくたち日本人はこんな危険な原発を容認してきてしまったのだろうと悔やんだりもした。
ただ、当時あまりの反原発や脱原発への凄まじい否定的なパワーを不自然に感じて、
否定するより賛成する側でいたいと思い、
「自然エネルギーで行こう!」というfacebookページを有志の仲間と立ち上げた!
さらに、マスコミやネット情報に振り回されるのではなく、
直接当事者の話し(一次情報)をききに行こうと思い、
長年ゲーム開発に携わってきた者として「エネシフゲーム・インタビューズ」というスマホゲーム開発の取材のために、脱・反原発派の方々や原発推進派の御用学者といわれていた方々、自然エネルギー事業者の方々に直接お会いしてお話をうかがった。
それでわかったのは、それぞれの方々が思い描く、人を幸せにしたいという概念に大きな違いはないのだが、そこへ至る方法論が異なり、それぞれの方々の正義になっていたように感じた。
そのぼくがなぜか今はうんちマンとして生きている。
うんちマンは「空気」を読めないわけではないが、
あえて「空気」を読まないことはあると思う。
うんちマンを思いっきり肯定して自分もなりたーい!と受け入れちゃう人達もいれば、自分はうんちマンにはならないけれど、ぼくの存在そのものは肯定してくれる人達もいる。
うんちマンを否定したり、けげんに思ったり、アブナイ近寄りがたいおっさんだと思う人も少なくないと思うが、
どちらもあんまり気にしていないし、
うんちマンでいると、そういうことがどんどん気にならなくなる。
今日もここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
ぼくたち生きとし生けるものにとって、今日も多様性を認められるようでありますように(*゚▽゚*)