昨日、ぼくたち家族のかかりつけの近所のお医者さんから電話があった。
『お母さんが来ているのですが、
お母さんは心房細動という病気ですが、それがここ数日の間で急に悪化している可能性があり、心不全になっているかもしれません。
ここに来るのにもハアハアゼイゼイと息切れをして苦しかったようですが、お母さんからきいてましたか?』
「ああ、いいえ」
『どうしましょうか!?』
「どうしましょうか?とは、どういう意味でしょうか?具体的に教えていただけると助かります」
『ああ、失礼、心不全というのは急激に悪化する可能性があるので、今日、もしくは明日にでも大きな病院に連れて行かれた方が良いのではないかと思います』
「おおお!そうなんですね!?」
『紹介状を書きますので、今日にでもご一緒に病院に行かれますか?』
「ああ、はい、そういうことなのですね!?それは母がしたいようにするのがイイと思います」
『なるほど、わかりました!いまどこに居ますか?』
「家に居ます」
『すぐに来られるのなら、こちらに来てください!お母さんと一緒にお話ししましょう!』
「はい!わかりました!」
ということで、歩いて3分くらいのかかりつけのお医者さんに急遽かけつけた。
母が待合室でポツンと待っていた。
母に、
「ご機嫌いかが?変わりはありませんか?って毎日きいているのに、心臓が苦しいことはどうして話してくれなかったの!?」
ときいたら、
『死にたいと思っているから、ちょうど良いかなと思って、あんたに心配かけるのも悪いし、だからいわなかったの』
ということだった。
「そうなんだね。じゃあこれからは教えてくれると助かるな」
『わかったわ!でもわたしは毎晩寝る前に目がさめなければ良いと思って、このまま目が醒めませんように!ってお願いして寝るんだけど、朝目がさめちゃうのよねぇ』
「そうだよね。知ってるよ」
母はしょっちゅう口癖のように、死にたいという。
パパや真由美ちゃん(亡き姉)に早くそっちに呼んでねと毎日お願いしているの!という。
なんで死にたいの!?ときくと、
だってわたしはなんの役にも立っていないので、生きている価値がないし、毎日がつまらないからだという。
友達もどんどん死んじゃったり、認知症になったりして、あんまり誰にも会えないしつまらないという。
確かに友達が少なくなって、誰の役にも立っていないと感じるのはつまらなそうだと思う。
母は姉が亡くなる6年前までは、娘であるぼくの姉と孫、さらも今は孫と結婚している当時は自宅同棲していた孫の彼女の分までご飯をつくったり家事全般をしていたのだから、大変ではあったと思うけれど、それなりにやりがいはあったのだとは思う。
姉が亡くなってぼくたちと一緒に住むようになったとき、
母は美容やファッションが大好きなので、実年齢よりかなり若く見え、そこにかける情熱は凄いので、そういうことを人に教えたりするのはどう!?教えてもらいたい人がたくさん居ると思うなぁ。
というと、まんざらでもなさそうだったので、じゃあやってみようよ!サポートしてあげるよ!
ところが、いざとなるとやはり面倒なのでやりたくないといって、結局やらずじまいになってしまった。
ぼくの友達にはALS患者で、もう目と指先がほんの少ししか動かない高野元さんという人がいる。
それでも元IT系だった経験を生かして、視線入力でパソコンを自在に操って、
自分のような障がい者でもプレゼンテーションできるようなプレゼンツールを仲間と開発して、無償配布したり、
そのツールを使って講演活動をしたり、
一般社団法人日本ALS教会の神奈川県支部の役員をしたり、
自ら川崎「つながろ会」をつくったり、
ダイバーシティな幸せのハロウィン・フラッシュモブ!に何度も参加したり、
自分の活動報告会を開催して、自分の活動をアピールしたり、
鎌倉の観光旅行ツアーを企画して実行したり、
来週末には一緒にイルカを観に行くことになっていて、
とても、重度身体障害者とは思えない活躍ぶりだ!
それもたくさんの人を巻き込んで!
母は明るく親切で、気さくな人でもあるので、母も高野さんと同じようなことをしたいといえば、ぼくをはじめ多くの人が協力してくれると思う。
そんな話をしたこともあったし、その気になればできるよ!みたいなことは最近でもたまに話したりもするが、もうわたしには無理だという。
いまは、もう母のあるがままを受け入れて、存在しているだけで価値があるんだよ!ということを伝えつつ、母のしたいことを受け入れていこうと思っている。
今日は早くから病院につきそってきます。
今日もここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
ぼくたち生きとし生けるものにとって、生きているだけでそのまんまで価値があることを認め合えますように(*゚▽゚*)