昨日のブログでは、ぼくの母親は自分大好きで明るく大らかでしたし、父親はやや屈折し体調や気分の浮き沈みが激しかったですが、やはりぼくの進路について無関心と思えるほどに口出しをすることは一切なく、ただお金だけは出してくれました。
いま考えるとぼくは本当に運が良かったと思いますし、ありがたかったです。
なぜならば、同じ親に育てられたのに、ぼくの姉はこの両親にまったく違う印象をもっていたからです。
…と、ここまでが昨日のブログですねヽ(´ー`)ノ
姉のことは以前から何度もブログで書いていますが、
2つ上の姉はぼくと同じ両親に育てられたのですが、幼い頃から聞き分けが良く、優秀だったそうです。
スポーツ万能、成績優秀!物怖じもせず、よく学級委員長などをしていました!
ぼくはといえば、母の話しによると1700グラムの未熟児で、死にそうになって生まれてきたので、すぐに保育器に入れられ、1ヶ月ほど病院にいたために母の母乳もでなくなりミルクで育ったそうです。
だからなのか、虚弱で3歳頃までに病気や怪我でなんども死にそうになったり、バカな子だったのでイタズラをしていて自分の目を誤って針で刺して失明しかかったりと、もの凄く手のかかる子だったようです。
泣き虫で弱虫で甘ったれなのに、内弁慶でやんちゃなイタズラ坊主!スポーツも勉強も姉には遠く及びませんでした!
したがって、母はぼくが生まれると、思いっきり手間のかかるぼくにかかりっきりにならざるを得ず、
聞き分けが良く優秀だった姉に、
『あなたはおねえちゃんなんだから我慢して良い子にしててね!』ということが多かったと。
幼い頃の姉からすると自分だけの母だったのに、
幼いぼくに母を独占され、
弱虫だけど、やんちゃでイタズラ好きのぼくに我慢ならないことが何度もあったのでしょう!
『もう昭彦(ぼくのこと)なんかとは一生遊んであげないからね!』とよく言われ、
幼い頃のぼくはその言葉を聞くたびに、
「おおおお…!もうお姉ちゃんは一生遊んでくれないのかぁ(^◇^;)))」と、
絶望の淵に追いやられ、
どん底に突き落とされたような気分になって、
思わず「ママー!お姉ちゃんがあんなこというのー。゚(゚´Д`゚)゚。」と母に泣きすがり、
結果的に母の膝を独占していたことをいまでも覚えています。
大人になり離婚して実家に息子と一緒にもどってきた姉は、
母とのいさかいが絶えなくなり、激しいケンカをしてはいつも口癖のようにこう言っていました。
母のいうとおりに良い子にしていたら、いずれ自分も愛されて抱きしめてもらえると思って待っていたら、いつまでたっても弟に独占されて、あたしはいつも寂しかった!と…。
姉は結果的に「アダルトチルドレン」や「愛着障害」という生きづらさをかかえる人になってしまったのであろうと思っています。
つまり、ぼくというものすごく手がかかり、弱虫で甘ったれでやんちゃな弟が生まれてきたおかげで、母にしてみればまったく悪気なく、姉への愛が不足してしまったのだと思われます。
前述したようにぼくの母親は自分大好きで明るく大らかでしたが、思慮深かったり細やかな気づかいがあるというよりも、やや天然なお嬢さまタイプという感じだったのです。
また祖母の影響だと思いますが、世間体(世間の常識、慣習、既成概念など)を気にするところがありました。
さらに、母は専業主婦で父をとても愛し、父に大きく依存していたので、最終判断は父に委ねるタイプでもありました。
父親はやや屈折し体調や気分の浮き沈みが激しかったですが、子どもの進路について無関心と思えるほどに口出しをすることは一切なく、ただお金だけは出してくれました。
父は世間体を気にする母とは異なり、自分が正しいと思うことをしていれば人にどう思われても良い!的なところがありました。
姉は思春期の頃、父の転勤によって親しかった友達と離ればなれになり、転校した学校で軽いイジメにあったり、私立名門高校の受験に失敗して、都立トップクラスの高校に進学するも、友達が立て続けに自殺をしたりということも影響したのか、目的を失い、その場限りの遊びに走ってしまい、自分の好きなことや進路も見失ってしまったようでした。
大学受験をせず、いくつもの専門学校などに入ってはすぐにやめてしまうという行為を繰り返していて、やっと英語に目覚めて英語で有名な私立大学に合格したものの、時すでに遅し、
父は学費をだしてくれなかったそうです。
元々姉は目標が定まるとものすごい努力家でもあり、その後通訳の免許まで取得したものの、大卒という学歴にコンプレックスをもったまま、半官半民的な職場で、学歴の壁と愛着障害などの障害による対人関係の生きづらさによって、結果的に若くして他界することになってしまいました。
ぼくはといえば、母のススメで私立大学付属的な男子高校に推薦で入り、ちょっと絵が得意だったので油絵を習い始め、その私立校の同じ敷地内にある大学の学生にはなりたくないと思っていたので、美大に行きたいと思うようになり、高2の頃から美大の予備校に通い始め、一浪して多摩美に入り、労働する人は才能がないのだと勘違いし、大学院に進み、コンペで大きな賞を受賞するようにもなりました。
在学中から画力よりも企画力や行動力などに自信があったために、卒業後、広告デザインを経て、当時はまだオタクというマイナーなイメージだったものの、飛ぶ鳥を落とす勢いのゲーム業界に活路を見いだし、なりゆきでゲーム会社の社長になったのでありました。
では、ぼくの母は、以下のような天才達の母となにが違ったのか!?どうすれば良かったのか!?
・子どもをそのまま、まるごと受け入れていること。
・弱い部分や悪い部分、失敗などもいったんすべて受け入れてから、我慢することなどを教えていること。
・どんなあなたでも素晴らしいし、大切だし、大好きだと無条件に受け入れ、伝え続けていること。
ぼくにとって、これらは受け入れてもらっていたと思いますし、ある程度イイカンジだと思われていたと思うのですが、姉にとっては「母にとって良い子にしている自分」しか受け入れてもらえず、さらに、受け入れ方も弟のぼくのせいで愛情不十分に感じられたのだと思われます。
・世間の常識、慣習、既成概念などにとらわれないこと。
このことについてはぼくも母にときどき不満を感じていました。
ぼくは母になぜそこまで人目を気にするのだろうと思うことがありましたが、父の影響と母方の祖父(おじいちゃん)がとても大らかで人目をはばからない人だったので尊敬していて、
母になんと言われようとあまり気にしていませんでした。
どの母親も最初は素人なわけで、しかも少子化なので子育ての経験も十分に積めません。
さらに母親は自分の母親からしてもらった同じことを良くも悪くも、また自分の子どもにもしてしまいがちです。
こういう兄弟姉妹間の愛情の過不足等はどこの家庭でも起こりがちだと思いますが、まずぼくたち大人が全体的にもっと大らかになり、
家族へも友人、会社の上司、同僚、部下など含む目の前の人に「信じて、慈愛の気持ちで見守る(否定的な表現では「期待しない、あてにしない、見返りを求めないetc.」)」という気持ちをもつようにすることが、とても肝要なのだと思います。
長くなってしまいましたが、今日もここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
ぼくたち生きとし生けるものにとって、今日も目の前の人を信じて、慈愛の気持ちで見守れるようでありたいですね!