感情の生きもの人間。

とかく、悲喜交々、自分が感情的になること、心がざわめくことは、当然のことながら身近に起きやすい。

 

喜怒哀楽、喜びも、怒りも、哀しみも、楽しいことも、

 

多くの感情的になることは身近で起きていることが多い。

 

つまり、それほどジブンゴトになっている、感じているということだ!

 

 

 

逆に人間という生き物は身近で起きなければ、

 

自分に火の粉が降りかかってこなければ、

 

殺人だろうとむしろ10万人死亡しました!というような大量殺戮などになってしまう方が感情的になりにくいようだ。

 

 

 

サッカーや野球でどこのチームが勝とうが負けようが、全然気にならない人も、

 

そのチームに友達や遠い親戚の息子が在籍していたり、

 

以前そのチームの地元に住んだことがあっていまも友達が住んでいたりするだけで、

 

それどころか、

 

そのチームに子どもの頃から母一人子一人でお母さんが女手ひとつで貧しいながらも愛情深く一所懸命育てた!とか、

 

じり貧どん底の最弱だったチームに名もない監督が来て、数年でみるみる内に強くなったなどというドキュメンタリー番組とか見ちゃうと、

 

俄然応援したくなるのがぼくたち人間という生き物らしい。

 

 

 

つまり、事実というかありのままの事実よりも一切の物事はそれを認識する心の現れ。

 

人や物事をどう認識するかということによるのだと。

 

大乗仏教の瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)の見解だという。

 

 

 

自己執着心とは、

 

必要がないのにもかかわらず、こだわり、依存して手放せない状態。

 

執着 ≒ エゴ

 

情報過多によって、心の落ち着きを忘れ去ってしまい、

 

自分自身を見つめる時間が足りなくなってしまうという。

 

ぼく自身もあらためて、

自分はい

自分はいったいなにもの?

 

なぜ?自分はここにいて

 

いかに?生きるべきか?

 

ということに向き合う時間を増やしたいと思う。

 

 

 

今日もここまで読んでくださって本当にありがとうございました。

 

ぼくたち人間にとって今日も自分と向き合う時間が少しでも多くとれますように。